相撲の現状

今場所も朝青龍がぶっちぎり。独壇場です。この強さは賞賛に値するものだというのは間違いないし、あわせてその他の力士のふがいなさというのも、すでに世間一般の常識となりつつある。播磨灘だったら「やめてしまえ!」と一括するところ。
現在1敗で追っている魁皇だって、横綱昇進もいつの日の思い出、気がつけばおなじみカド番ですから。
このアオモンゴルの強さとそれに伴う憎らしさは、3000m以上のレースでのメジロマックイーン並です。もしくは1400m以下でのタイキシャトルでもいい。単勝で2倍を切っていて、とても買えないが他に買う馬がいないのでしょうがないといった感じ。
アオモンゴルは以前は横綱としてその言動を色々言われたけど、勝ち続けている限りは周囲が何を言っても問題ないと思っていたでしょう。だって彼は相撲を国技だと思ってないもの。彼にとっては他の国の国技であって、彼にとっては格闘技・スポーツでしかない。横綱とは競技のチャンピオンであって、神技の参加者の頂点ではなかったのでしょうね。
さすがに最近はヤンチャな言動はなくなってきました。地位が人を作ったのでしょうか?それ以前に相撲自体がピンチだしね。人気が全くないし。
曙あたりの元横綱が打撃系の競技に出て、ダウンアーチストとしてその地位を確立しているのも、相撲自体の強さをぐらつかせる原因の一端になっているのは事実。でも彼は横綱ではなくヨコヅナだから、他競技においては力士としての特性がそのまま短所になっていることも周囲は理解してやらないとダメ。さらに自分をヨコヅナではなく横綱だと勘違いして他競技に行ったのも失敗。小錦あたりは頭がいいから、力士としての特性をいかしてダイエットを売り物(TV企画)にしたぐらいで、スポーツはやろうとしないもの。武蔵丸なんかは体形的に曙ほど偏ってはいないから、もしかしたら少しはやれるかも知れないけど、それでもやろうとしない。若貴のお兄ちゃんはアメフトやったりしたけど大して通用せず、今はチャンコ屋。彼もまた技に優れたヨコヅナでした。

いつからか周囲は相撲に対してスモウレスラーとしての強さを期待しつつ、その強さを持ったモンゴル人に反感を覚えたのかもしれない。それは実のところ、相撲がスモウレスリングではないんだという希求の結果からであるんじゃないかと考える。
心技体の一致が相撲にはあるべきなのに、現在の力士は必要以上の大型化が進み、それに伴う怪我・休場の連続と、押し出し・はたき込みの連続では、今の相撲は体も技も既に見られない、相撲とは別の競技になってしまっているんじゃないかと皆は感じ始めているんじゃないかと思う。
そこに現れたモンゴル人は体と技を持っていて横綱になったのだから、周囲はあと一つの心を求めるんでしょう。彼にとってはどうでもいいことなのかも知れないが。少し前までの彼は間違いなくヨコヅナでしたが、今は横綱になりつつあるのかもしれない。彼が時折見せる技の切れと身体能力の高さは十分に神に奉じてもいいものであると思う(対戦相手のレベルの問題で本当にたまにしか見れないのが残念だが・・・)。彼が横綱としての心技体を最大限に発揮し、我々に見せることによってのみ、相撲界の発展はないのが現状である。だって他に横綱になれる(ふさわしい)力士がいないのだから。
他の力士は横綱の最大値を出させるべく精進すべきであるのかもしれない(八百長しろって意味ではないよ)と、思ってしまいます。あ〜あ。

久しぶりに本の紹介。多分、アオモンゴルのバイブル。

ああ播磨灘 (1) (講談社漫画文庫)

ああ播磨灘 (1) (講談社漫画文庫)

で、ついでにこれもって・・・

ああ播磨灘外伝ISAO (4)

ああ播磨灘外伝ISAO (4)

つい「播磨灘外伝イズ・アオ」って読んでしまった。
やっぱりアオモンゴルか?